家族の回復の証④
- アイラブジーザスチャーチ
- 2024年5月20日
- 読了時間: 9分
弟の結婚式から心に込み上げる感謝があり
三回に分けて書いてみましたが
これから少し思いを書いて行こうと考え
五十嵐家奮闘記第4段です
両親の回復から
私の結婚と子育てのプロセスです。
私の愛する息子
長男の志音ともここ数ヶ月日々語り合い
これからの五十嵐家の展開について
祈りあっていますが
弟の結婚式で次にステップに踏み出す力をもらい
我が家の悔い改めからの家族の回復の
その結婚観、家族観をじっくりと
考えさせられて
私もその後28歳で結婚することになりますが
我が家に与えられた長男は
口唇口蓋裂で生を受け
生まれた直後に医者が驚き
妻は抱っこさせてもらえないまま
別室に移動させられ
そのまま産まれたいわき市の病院から
突然救急車に乗ることが決まり
私がそこに同伴して
NICUのある別の大きな病院に移動して
いきなり全身の検査から始まった
出産と育児は
両側の口唇口蓋裂で生まれてきたことで
おっぱいを咥えられず
母乳を直接飲めないので
搾乳機で搾乳して
ドイツ製の専用の哺乳瓶を使うことになり
まさかの父親が母親より先に
NICUで長男を抱き上げたあの記憶もまた
鮮明に思い出として残っています
弟の出会いも素敵ですが
私も妻との出会いはいまだに
神様に感謝がつきません
当時、渋谷福音教会の渋谷ハーベストという
礼拝で礼拝全体を導く人が求められていて
お声がかかり
その礼拝を導いている時期に出会った
私と妻は結婚してから
私のラジオのスポンサーが
当時させていただいていたラジオ日本の
ラジオ局付近に住んでのほうが仕事しやすいからと
ご指導いただき
新しい住まいが決まるまで
弟の光と両親とともに
家で教会の働きを再会していた相模原市の橋本で
一間を借りて
妻と私も住みながら日々を過ごしていました
そして、東京は港区に住まいを決めてもらい
住み始めて生まれた長男は
いわき市での里帰り出産で
上に書いた出来事を経験しました
里帰り出産を終えて
再び東京に戻りますが
ラジオ日本から近い
港区の東京タワーの下に
住んでいましたが
息子の口唇口蓋裂のために
名医に手術と治療をしてもらいたいと思い
そういえば渋谷の教会で出会った仲間に
お父さんがお医者さんの方がいたなと
連絡をとり
「この病気の手術の名医は知りませんか?」
と探してもらうことにしました
そして、昭和大学病院に
その名医がいることを知り
紹介状を書いていただき
そこに通うことにしました
そして、口唇口蓋裂の専門の
歯科矯正の施術がしていただける
昭和歯科医大と連携していますので
最初に与えられた長男の治療と通院のために
夫婦で力合わせて子育てをしていくことになります
そこで私は教会の働きと
家計を支える糧を得るために
妻に一人任せては大変だろうと考えて
どこかに勤めることはしないで
自営業で夫婦で支えながら
子育てをしていけるように
平和を作り出す仕事をしようと
「ピースプロダクトと」と命名して
その子育てと家族を支える生活を
スタートさせたのでした
長男のお陰で
父親である私も夜中の授乳から
積極的に子育てに参加させてもらえることになり
妻は夜中に起きて搾乳し
そして、それを哺乳瓶に保管して
専用の保温器で温めながら
2時間交代で夜中に妻と私で
長男にミルクをあげることができました
父が聾唖の知的障害の青年を雇用した
そのような経験があったからこそ
私も自らに与えられた長男の口唇口蓋裂を
そのまま受け入れることができましたし
また、聖書には神様がひとりひとりは
神の目に高価で尊く
神の計画で造られたとありますので
この長男の人生も
このように生まれてきた
神様の計画があるのだと
産まれた直後に
取り上げてくださったお医者さんに
その思いを伝えると
お医者さんは突然
「負けました」と私に言います
本来は医者が親御さんを励ますのに
まさか親御さんから先に
医者の私が励まされるとはと
そのように言ってくれたことも
今でもあの診察室のこの場面を忘れられません
さて、長男の病院に夫婦で最初に足を運んだ日の
こともまた忘れられませんが
病院に行ってみると
見渡す限り
私の記憶ではそこにいた全ての
治療に来ていた子供には
必ず両親が付き添ってきていました
その後の記憶もそうでしたが
ほぼ毎回両親が揃って
子供のために仕事がある方は休みをとり
夫婦で昭和大学病院に来られていて
子供のお陰で
夫婦が助け合わなければならない
環境と状況が与えられているのだなと
また私たちだけが大変なのではなく
同じように子育てしているご夫妻が
沢山いらっしゃるのだなと大いに励まされました
そのおかげで県外から通われる親御さんと
お友達になる機会が与えられて
孤独ではないことを互いに
感じることができていたのかもしれません
さて、
なぜ、弟の結婚式を終えて
改めて我が家の歩みを書きたいと
思ったのかと言えば
我が家の両親の苦しみと悔い改めと
癒しと回復のプロセスが
私と妻の夫婦関係、子育て、家族関係に
良い面はそのまま受け継ごう
そして、反面教師として捉える面については
自分も同じように成長していきたいと
思って歩むことになる影響を与えられたからです
これまで様々な夫婦や家族の回復のために
関わらせていただいてきましたが
両親からの愛情を受けられずに育った子供が
大人になり、どれほど人間関係で苦しむか
知らされることになりました
様々な悩みを抱えた方々とお会いして
その人生の歩みをお聞きすると
その育ってきた環境で
心に傷を受け
精神にネガティブな影響を受けて
人格形成で苦しんで
それが学校や会社や家庭の
人間関係の構築で
悩んでいることに気づいたからです
いまやLGBTQと一括りに表現されている時代に
先天的な性同一性障害と生まれつきではなく
後天的にそのようにならざるを得なかった
一人一人の過去の傷を知らされた時期もあります
私がかつて新宿二丁目で
ゲイやレズビアンや
バイセクシャルやトランスジェンダーと呼ばれる
方々と交流して
そこでも一人一人が神様に造られた存在だと
聖書の話をしていた時期があり
出会った方々の人生をヒアリングしてみると
私が出会った全ての人は
子供の頃に親や大人から性的な虐待を
受けれられていて
その背景には夫婦関係の問題がありました
世界にはその心の傷の癒しと回復の働きも
沢山ありますが
日本ではまだまだ少ないのかもしれないと感じています
そのような中で
世界の戦争や
災害や
病気や事故で
親を失った方々へのケアは沢山ありますが
問題として認識されてない中で
または、親の事情で
子供が願っている選択肢が得られずに
苦しんでいる子供達が大勢いることも事実です
障害という状態も
身体、知的障害の方への理解はありますが
精神障害や
学習障害
発達障害など
様々
時代と共に病名がつけられて
それで良くなる人達と
それで自信を失う人達と両方いるのも現実で
LGBTQも多様性の一言で片付けられない
人の数だけその背景は違います
長男たちのような障害は
治療をすることにより
回復が見込める病気に関しては
育成医療や厚生医療の制度で助けられている
子供達が大勢いる中で
社会制度はもちろん
誰からもサポートを受けられずに
孤軍奮闘されている
個人やご夫妻や親子やご家庭があるのだと思います
天災や
人災といいますが
子供たちは
どのような状況や環境であれ
子供の力だけでは乗り越えられない
または自らが望んでいる心の声が聞いてもらえない
いや言いたくても言えない
言う相手がいない
そんな状況があることも忘れたくないものです
さて、そんな子供達の心を守り
またそれぞれに
人生に与えられた神様からの時間の中で
感謝と感動のある日々を過ごしてもらいたく
いま私と関わる政治家の仲間たち
教会の仲間たち
事業の仲間たちと
そして妻と長男と
五十嵐家が神様とその造られた素晴らしい一人一人のために
何ができるか祈りを捧げている日々です
そこで、夫婦で一生懸命に愛情を注ごうと
必死に子育てしてきた長男から
中学校の卒業式で感動の手紙をもらいました
東日本大震災以後
支援活動で忙しく
家族よりも他の人たちのことばかり
やりすぎてきたかなと
自問自答をしながら生きてきた中で
長男からの手紙は
親への通知表として
それが人から見たら
1でも2でも3でも
私には嬉しい評価と受け取りました
長男は私が家族以外の人たちを
まるで家族のように関わってきた様子を見て育ち
自分もクリスチャンとしてイエスさまの愛に習って
お父さんのように生きていきたいと
書いてくれていました
親はなくても子は育つと言いますが
一生懸命に生きるその姿を
子供は見てくれているものだと嬉しかったのですが
その子育てが子供にどう影響したか
それを知るのはその後の
卒業式後に予定していた
仲間たちと交流に行く時にわかることになります
長男は
卒業後に同級生達と遊ぶ約束をしていました
そして当日
遊ぶ約束をしていた仲間たちは
不登校で学校に来れなかった仲間と
中学時代にいじめられて同級生とうまく
つきあえなかった仲間たちでした
そして、長男は彼らとの約束をしたあとに
幼稚園と小学校から仲の良かった仲間たちからも
遊びの約束の声がかかるも
先約があるからいけないわと
断ったのですが
なんと遊びにいった郡山のラウンドワンには
断った仲間たちも遊びにきていて
結局はみな同じ場所にきたという
思い出もできました
そんな長男は卒業後に
弟が卒業した敬和学園高校に入学して
寮生活を送っていましたが
高校2年の一学期で
私がいま任されている介護施設の
給食事業で一番柱となっていたスタッフが
突然辞めることになり
いくつも事業を兼任しながら
突然毎朝早くから
毎日介護施設の厨房に入ることになり
このままでは私が倒れてしまうと
父親の健康を心配した長男は
新潟からいわきの通信高校に
転校することを決意してくれて
事業の運営や調理や教会の役割を学びながら
仕事をしていくことになり一年が経ちました
そして、人が足りずに困っていた介護施設の職場に
アルバイトで来てくれることになったのが
まさに中学時代いじめにあい
仲間たちと馴染めなかった二人がきて
お手伝いしてくれていて
そして、いま支えてくれているもう一人は
東日本大震災で出会った
シングルマザーのスタッフです。
スタッフから書くことを許可得ましたので
これから家族の事情で
悩める若者のお手伝いをしたいと考えていますが
彼女は
親の離婚後
お母さんが鬱病になり
子育てができなくなり
経済的に高校に行けなくなり
希望を失って
その当時出会った男性との間に
子供を授かり
未婚の母として育てていくことになり
あれから立派に子育てをして
成長して
仕事のお手伝いもしてくれています
震災後に
教会としても
政治家たちとの連携にしても
私が一番お手伝いできる分野を探しながら
まずは
家庭や親の事情で人生の方向性を
悩みながら模索している若者たちの
お手伝いをしたいと心に迫られています
それを家族で協力しあって
教会
事業
政治と
各分野で
人材育成のために時間を捧げていければと
願っています
また、お祈りをお願いします
そして人材育成のために
サポートしてくださるかたたちも呼びかけています
学ぶ場所や人々を受け入れる場所
また、緊急避難で人々を受け入れられる場所を
さらに整えていけるように
お祈りと連携ご協力もよろしくお願いします








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