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神のことばの学び 第四回

  • 執筆者の写真: アイラブジーザスチャーチ
    アイラブジーザスチャーチ
  • 2024年6月17日
  • 読了時間: 6分

更新日:2024年6月18日








※写真はケニアのクリスチャンの仲間たちと(26歳)

長崎の西坂公園にある26聖人(神の愛に突き動かされた日本のキリシタンたち)の記念館を訪ねて(45歳)



「信仰」と「悔い改め」と「救い」について


今回は考えてみたいと思います


「信じる者は救われる」


こんな言葉を初めて耳にして


ピンとくる人はどれくらいいるのでしょうか?


信じる?


私はこの信じるということが本当は正直よく分からなかったのでした


6歳から教会に行くようになった私には


神様とかイエス様を「信じる」ことは難しいことではなかったわけです


その信じるって


神様がいるということを


イエスさまが実際にいて人を救うために十字架にかかったこと


それは頭では信じることはできました


しかし、本当に信じていたかどうか12歳で洗礼を受けて


17歳で家族の危機を迎えるまでは


信じていたことが、大して自分の人生の支えになっていなかったことがわかったのです


なぜなら本当に信じていたかどうかを揺らがされる状況になり


初めて「神を信じる」ということを真剣に考えるようになったからです


信じる者は救われるということが


聖書でそれを支える箇所があるとしたら


ハバクク書には「義人は信仰によって生きる」という言葉があります


正しい人は信仰によって生きる


もっと丁寧にいうならば


「神の正しさに生きる人は、神様を信じて生きる」というふうに表現できます


使徒パウロ、預言者ハバククが


それを表現しました


「義人=正しい人は、その信仰によって生きる」と


神様を信じるとは


ギリシャ語でビステーボ、名詞形でピスティスですが


信じるとは、信頼することであり


信頼することは、信頼する対象がいるわけですから


その相手に委ねることであり


委ねるとは、自分の力に頼って生きることに限界があることを認めて


その自分を支えられる対象、もしくは相手の力を信頼して


身を任せるということなわけです


イエスキリストを救い主として信じて告白すると罪の状態から救われるわけですが


日本人に最もピンとこない言葉が「罪」かもしれません


自分は犯罪者じゃないとか


そこまで悪いことしていないとか


そう思う人は少なくありません


特に俺は宗教頼るほど困ってないし


罪人じゃないから教会に行くこともないかなと


言う人たちとも出会ったことがあります


では「信仰」の次に考えたいのが


「罪」です


確かに聖書で罪を犯すという表現があります


ギリシャ語で「ハマルターノ」、ヘブライ語で「ハッタート」


それは「的外れ」という意味があります


罪の状態とは


神が与えた人生の目的や


神の義の基準の的を外して生きている状態を指すとしたら


犯罪を犯していたり


何か特別に困っている状態だけを言うのではないことはわかります


神に創造された私たちが


神に造られたその生きる目的や方向性を見失い


自分の善悪の価値基準で生きる状態になっていることを


聖書では「罪=的外れ」と言う状態であることを伝えているのです


神に造られた自分の価値を知らない、見失い、分からない状態で生きて


自分の力や自分の描いた人生を歩んでそれを善としている状態を


自分の義に生きていることだと教え


神の義に生きる的を外していることを知ること


それが罪を知り


神に悔い改める必要性があることを知るのです


そして「悔い改め」なさいと神様は語ります


罪人である自分が神の義を知り


悔い改めて救いを得る必要があると言うのです


「悔い改め」は「罪」が的外れならば


悔い改めは「方向転換」と言う意味があります


何を、どう方向転換するのか


悔い改めのギリシャ語「メタノイア」は


「思いや心を変える」と言うことです


人生の方向性を決めている価値基準は


これまで親や学校やメディアなどから受けてきた数々の


人生を選択してきた様々な相対的な価値基準=義の基準=善悪の基準があり


それが神様からのものかそうでないのか


その人生の判断基準を神の価値基準に方向転換することなのです


人は神に愛されている存在


その


「愛されている存在」が


「愛されたい存在」に変わる時


人は認められるために生きるようになって


常に中心が自分になってしまいます


それを自己中心というわけですが


「神の不変の愛で愛されている」とわかる時


人は神に愛され、認められているから


隣人に対してもそのように愛し、認めていき


十字架で示された義の基準


それは、間違った状態に陥っても


赦して受け入れ合っていく関係性です


そして、神を信頼する者は


神の義の基準で生きるので


隣人との平和の関係を保っていくことができ


神の義で本当の平和をもたらすことができます


それが神中心の生き方


本来の人が造られた目的を果たしていけるのです


神中心は愛と義と平和が中心となり


その人は湧き出る泉のようになっていくのです


神のことばを知るとき


私たちは人生の価値基準がどこにあるかを知らされることになるのです


神のことば


それは人となった救い主イエス


それは人類を永遠の死から


永遠の命へ導くほどに神が愛を示した


一つの究極の愛がありました


罪を犯したら


命をもって償わなければないほどに重要で


それは神と人との関係を断絶してしまうものです


神と断絶された状態にいる罪の状態


その状態から本来の神の子供としてのアイデンティーを取り戻し


神の義の基準に生きるために


人間の努力や経済力や学力や家柄では到底埋めることができない


神と人との隔たりのギャップ


その罪による関係断絶のギャップを埋めてくれたのが


イエスキリストの十字架の死による罪の赦しでした


そして復活して永遠の死を克服して


私たちに新しい命に生きる初穂(模範)となられました


人と神との破綻したそのギャップを


イエスキリストの十字架による犠牲によって


人は神との関係を回復することができるのです


それが救いであり神との和解であり


永遠の命を得る状態というのです


神の義以外の何かしらの善悪の基準に生きる


相対的な人生から


イエスキリストが十字架で埋めてくれた


神の義の基準を受け入れる時


すなわち


これまで自己中心で生きてきた罪のために


イエスキリストが命かけて


私に愛を示してくれたことを受け入れて


自分の力に頼って生きることに限界があることを認め


神様の力に信頼して


すなわち神のことばの約束を信頼して


生きていく


これが


罪の救いのための信仰による義認=すなわち


信仰による救いを得るということなのです


一言で簡単に言えば


神の愛は


私たちの全ての弱さを受けれてもなお


どんな状態でも私たちを捨てない無条件の愛であるということです


その愛を私にも教え


味わわせてくださいと


祈ってみてください


天の父なる神様


私の心にあなたの愛を注いでくださって


私の人生を変えてください


私をあなたの命で満たしてください




















 
 
 

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