神様の世界に対しての伏線回収のドラマ 黙示録の学び1章
- アイラブジーザスチャーチ
- 1月23日
- 読了時間: 11分

黙示録1章1節〜20節
"イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。
そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、
すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、
そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。
今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、
その御座の前におられる七つの御霊から、
また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、
地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、
あなたがたにあるように。
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。
キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。
見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、
彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。
「わたしはアルファであり、オメガである。」
私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、
パトモスという島にいた。
私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
その声はこう言った。
「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。
振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、
人の子のような方が見えた。
その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、
その目は、燃える炎のようであった。
その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、
その声は大水の音のようであった。
また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、
顔は強く照り輝く太陽のようであった。
それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。
しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。
「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
また、死とハデスとのかぎを持っている。
そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。"
ヨハネの黙示録 1章1~20節
2011年5月12日に次女愛波(えりな)が突然死で天に召されて
その娘の額にヘブライ語でハシェムと神の名が示されて世界中の証となったことで
私は黙示録22章4節の出来事の真実を目の当たりにして
また、この突然死した娘のために祈ってくださっていたクリスチャンたちの中で
ある牧師がエゼキエル書7章が祈りの中で示されて
娘の額に神様がしるしをつける幻を見ていました
エゼキエル書では「町の中で忌み嫌うべきことのために嘆き、悲しんでいる人のために
ケルブが額にしるし」を神様につけさせられる出来事が記されており
聖書の出来事が娘の身にも起きて
それから黙示録の読み方をもう一度ゼロベースにして
自分の主観や解釈を横に置いて
祈りながら読み直すことを始めたのでした
そして、その娘の出来事から2ヶ月後にヨハネが黙示録の啓示を受けた
パトモス島に行って私も1人喪に服しながら
黙示録だけを読んで神様にその理解を教えてもらう時間を持ちたてく
トルコ経由でギリシャはパトモス島へ三日間祈りに行ったことがありました
さて、黙示録についてはいろんな宗教がここを引用したり
独自解釈で間違った終末思想を展開して人々を混乱に導いてしまうことは
この2000年の歴史で何度も何度も起きてきました
特に世紀末といわれる100年ごとに
毎回人々は世の終わりが今度こそかと考えたり
1000年と2000年の節目はミレニアムの記念で特に強く
終末を意識した人たちは多かったことです
しかし、まだ神の国の完成はそのプロセスにあります
そして、その完成の日は昨日より今日
今日より明日近づいていることも事実です
しかしその日は天の父しか知りません
さて、この黙示録がイエスキリストの弟子のヨハネに示され
それがユダヤ人ヨハネがギリシャ語で黙示録を書き残させられたことに
非常に不思議さがあります
現代でいえば、日本人が英語で記録を書き残すようなもので
ローマ帝国の支配下の中に生きたユダヤ人たちが
いわゆる当時の国際共通語であるギリシャ語を使って言葉を表現していったのです
アポカリプスと表現された黙示録は
神様に隠されてきたことを表に表すという意味であるが
まずユダヤ人がギリシャ語で書き残したものを
日本語や各国の母国語で読むときに
そこに限界があるという前提を理解しながら
黙示録を読み進めていきたいと思います
そして、黙示録の理解の唯一の方法はイエスキリストについて
またイエスキリストを通して理解できるメッセージであるということです
そして黙示録は神の霊、聖霊によって理解できるので
神の計画を理解したい方は神様との関係を回復して
読み進めていっていただきたいと思います
この黙示録については私も含めて誰かの解釈や理解で間違いのない教えはできません
ただお手伝いできることは
黙示録を理解したい人はイエスキリストを信じて
そして信じることによって与えられる聖霊を通じて
理解を深めていっていただきたいと思います
このヨハネが生きていた時代はまだ
旧約聖書も新約聖書も一つにまとめられているはずもなく
いわゆる、モーセ五書(トーラー=律法の書)、預言書(ネビィーム=預言者の複数形)
諸書(ケトビィーム=詩篇や歴史書など)を
イエス様や指導者たちの教えを聞いて記憶し、口伝で伝えていた時代です
さらに、聖書はプロテスタントの福音派では66巻だと言いますが
ユダヤ人にとってはサムエル記、歴代誌、列王記は一つの巻物ですので数え方も違いますし
ユダヤ人は聖書とは言わず上の書物を総称して
(タナッフ=フは喉音なので日本語ではフとクの間くらいの発音で喉で発声します)といい
新約聖書はイエスキリストの救いについて書かれている福音書と
教会やクリスチャンたちに書かれた手紙と黙示録で構成されています
私もこれまで旧約聖書はヘブライ語で書かれており
新約聖書はギリシャ語で書かれていますので日本語ではしっくりこない
または理解しにくい場所があるので原典言語を調べながら
現代の言葉に置きかえるということをしていますが
聖書の原典言語だから「宗教的」だとか「聖なるものである」とかそう思う人もいますが
ヘブライ語もギリシャ語も万能な言葉ではありません
ユダヤ人が使った言葉で旧約聖書が書き残されたのでヘブライ語が用いられて
新約聖書時代はローマ帝国が世界の主導的な国家でしたのでギリシャ語を用いて
書き残されたという歴史があります
なので、聖書は日本語や英語やギリシャ語やヘブライ語のどれかが
よりどちらかが優れているということではなく
書かれた原典言語の歴史的な背景やその言語の意味の幅(単語の使用され方)を理解して
現代のそれぞれの母国語に翻訳するときには当然
翻訳の限界が生じます
それもそのはず
創世記のバベルの塔で世界の言語はバラバラになりますが
それ以前は一つの言葉でコミュニケーションをとっていたので
その言語がヘブライ語でもギリシャ語でもありませんので
ヨハネの福音書を書いたイエス様の弟子のヨハネが
黙示録を書くことを許された
また選ばれた(用いられた)わけですが
そのヨハネの福音書の冒頭にある
「初めに、ことばがあった。ことばは神と共にあった。
ことばは神であった。この方は初めに神と共におられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と本質を知らされたように
全人類の全世界の共通の唯一のことばが「イエスキリスト」であるということを
ヨハネは聖霊によって知ることができたので
彼はこのイエスキリストの啓示を託されたことに非常に感動して、
また神様のなさったその選びの業をほめたたえます
全世界が神のことばによって造られたのであって
神の「文字」で造られたのではないのでここは大切なことです
使徒パウロは「文字」は殺し、「霊」は生かすと知るようになったように
ギリシャ語でも日本語でもヘブライ語でも文字だけで私たちが理解しようとするときに
どうしてもそこに時代的、次元的、また自らの知識や学力によって
相互の理解の誤差や解釈の間違いが発生するので
聖霊によって神の御心を求めながら
神の言葉の本質をより深く学んでいきながら
神の家族として共同体として神の心を知るために
謙って学び合っていくことが重要です
さて、イエスキリストを救い主として信じて永遠の命を与えられた人たちは
どんな役目が与えられており
またどんな未来があるのでしょうか?
1章を振り返ってヨハネはこのように神様から語られて書き記してくれています
イエス・キリストは
私たちを愛して、
その血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、
ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。
キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。
見よ、彼が、雲に乗って来られる。
すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、
彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。
「わたしはアルファであり、オメガである。」
イエスさまはペテロを通じて教会はハデスの門に打ち勝つ鍵を与えられている
天と地をつなぐ存在であることを教えていました
私たちは王国の働き人であり、神と人とをとりなしていく祭司の働きに導かれています
イエスさまが教えた祈りの中に
神の心が天で行われるように地でも行われますようにとあります
この天と日本語に訳された言葉こそここで表現されている「王国」です
天と訳されることばはギリシャ語でいうバシリア、英語でいうキングダムという意味です
いわゆる地面に対しての空という意味での「天」だけでもなく
現世と来世を意味する「天」だけでもなく
神の国という意味での「天」は
肉眼では見えていないけれども存在している神の現在進行でなされている支配の領域であり
地という時には私たちが生きている目に見える世界という意味での地をも指しているわけです
もちろん、天には空とか、地には土地や地面とかという意味もありますが
神の国を理解するときに常に目に見える領域と目に見えていないけれども
存在している領域をいうわけです
ヘブライ人への手紙8章では
「天にあるものの写しと影(5節)」という表現をしたように
地面に自分の影が写っている事が実態であるように
私たちには天にあるものの本体もあるわけです
現代では量子力学が最先端の学問で目に見えないものを理解して
卓越した気になれたとしても
所詮、電子、分子、原子も物質です
しかし、神は霊的な存在なので
人が神の似姿に造られて重要なことは
神の霊が注がれているということです
アダムとエバの失敗で失った命が霊的な命であり
霊的なことを理解するセンスですが
その失われた霊的な命を回復させてくださったのが
イエスキリストであり
霊的な死を経験した人類は
イエスキリストによって神の霊を回復しなければ
天の領域
神の国の価値観
そして、この黙示録の中に神様が人類に与えてくれた
全世界の回復のドラマの伏線回収のご計画とその未来図が書かれているわけです
だからこそ、黙示録はイエスキリストの黙示とヨハネが冒頭で書いたように
イエスキリストを信じて聖霊を与えられた人には理解できるよになっており
黙示録を
また神様の全世界への全人類の歴史への理解をしたい人がいるならば
イエスキリストを信じて回復する神の霊を(聖霊)を受けて
その霊的な世界と目に見える世界の双方から未来図を知っていけるのです
黙示録は一言で言えば
天地創造後の神と人との関係破綻により起こりうる
各地地域(国や島々など)と歴史での出来事と
その天地を造られた神の
イエスキリストの再臨によって回復する(贖われる)
天と地(見える世界と見えない世界)の
新しい創造による完成を神様はヨハネを通して示されたのである
特にこの啓示はイエスキリストを信じている人たち
神の教会に対して懇ろに語られており
天地創造の神様は1人も滅びることを望んでいないので
願わくば全ての人が黙示録を理解して
イエスキリストを信じることによって
霊的な命が回復して
神様から人々を癒し、回復に導く命の水が
神の愛が注がれ続けるわけですから
与えられた命を
与えられた人生を
与えらえた神からの役割を
大切に歩んでほしいと願っているわけです
続いて2章では教会へ語られたことを通して
それぞれ、自らの心に語られていることを受け取っていけたらと願っています
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